All rights reserved. Copyright (C) 1996 by NARITA Tomio <narita@mt.cs.keio.ac.jp>


* Zipper


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『ジッパー』

 見た目には分からない, 柔らかいヒダをめくり上げ, 触ってみてようやく気づく, 薄い爪で出来た小さな背びれ.

 腰から肩胛骨のあたりにかけて, 背骨に沿って一直線, ちょうど子供向けの怪獣ショーの怪獣のように, 彼の背中にはジッパーが付いている.

 小学生の時, 彼は週一回, 隣り街の水泳クラブに通っていた. 準備体操のストレッチが始まって間もなく, 彼の肩に, 一本の長い白髪が生えていることを, 後ろでアキレス腱を伸ばしていたS子が発見した.

 毛のことを告げられたのは, いつもクラブの帰りがけに立ち寄る, ファーストフード店の店先だった. 駅から放射状に伸びる道を, 独りでソフトクリームを舐めながら, 駅に向かって歩きだそうとした瞬間, いきなり後ろから背中をつっつかれた.

 もともと人見知りで, プールでも滅多に他人と言葉を交わさない性格だったから, ほとんど初対面の少女を前にして, 本来なら口もきけない状況だ. ところが, 特に親しいはずもなかったS子に対して, 彼は意外な軽やかさで心の扉を開いていた.

 やせ柄で背も低く, どこかしら, うつむき加減なS子の視線, プールサイドで孤立した感じのする存在. そんなS子が, 他の誰もが気づこうとすらしなかった, 自分の身体上の特徴を, ある時間, 観察していたという事実に, 密かな喜びさえ感じていた.

 駅まで歩く間, 彼はS子に感謝の気持ちを伝え, あとはお互い, ぽつりぽつり, …… クジラと … 一緒に … 泳げたらいいなって …… クジラと? … いいね … 素敵だと思うよ …… だけど … まだ,あたし … 泳げないんだ ……

 別れ際, S子は小指を立てて彼の方へ右手を差し出し, 唐突に, 指切りを催促した. 成り行きで,彼はそれに応じたが, 何を約束したのかは自分でも判らなかった.

* * *

 S子の言った通り, 首のつけ根から3cmほど右にいった, およそ産毛くらいしか生えないはずのその場所に, 思い出したように立派な白い毛が生えていた. 手鏡と風呂場の鏡とを合わせ鏡にして, 彼はしばらく肩の白髪を眺めていた.

 そっと根元を持って引っ張ると, 一緒に皮膚が盛り上がってきて, 本物の毛であることに間違いない. その気になれば簡単に引き抜くこともできそうだったが, 彼は思い止まった.

 よく母親が, 白髪を抜くと抜いた数だけ白髪が増える, というようなことを言っていたし, 一本くらい肩に白髪が生えていたとしても, 生活に支障の出る恐れはなかったし, それにこの毛を抜いてしまったら, 再びS子と話ができるかどうか, 少々不安だった.

 合わせ鏡で自分の体を吟味するという行為は, 彼に新鮮で刺激的なときめきを与えた. 普段, 直接には見ることのできない場所を, くまなく丹念に鏡に映し出していく. 見たことのないホクロや, 小さなアザ. まるで他人の身体を秘密の望遠鏡で覗きこんでいるような, 不思議な感覚があった.

 だから背中のジッパーを見つけた時も, 現実感の希薄な, 純粋に好奇心だけが彼の心を支配していた. 偶然, 左手の親指の爪が引っ掛かり, そのヒダに僅かな隙間ができた. そのまま爪を差し込んで腕を持ち上げたところ, かさぶたが剥がれるような微かな痛みと共に, 上下に裂けたヒダが出現した.

 皮膚の一部と見える半透明なヒダは左側に開口部がある非対称で, 右手の爪を立てて恐る恐る引っかけると, その広がった空間に, 白い粉状の垢に埋もれた一列の骨のようなものが見えた. 夕飯で食べた魚の背骨を横から見た図に似ていなくもなかったが, それを中指でなぞってみると, もっとずっと滑らかな表面をしていることが分かった.

 ジッパーかも知れない, 直観的に彼は思った. 理科の時間に先生が, 鳥の羽はウロコから進化したもので, 人間の髪の毛や爪だって, もとは爬虫類のウロコから進化したものだと言っていたのを思い出した. そんなことがあるならば, ウロコがジッパーに進化することだって, 十分にありうる気がした.

 ジッパーならば, 当然, 開くことができるはずだ. さっそく彼はジッパーを開くためのツマミを探したが, 背中の溝は両端で皮膚の下にもぐり込み, どこにもツマミらしきものは見当たらない. ひょっとすると, これは一方的に閉じるためのジッパーであって, 最初から開くためのものではなかったのかも知れない, そんな小さな落胆が, 湯気のたった彼の好奇心に水をさした.

 そもそも, ジッパーを開いたら血がでるんじゃないか, 初めて彼に現実的な不安がよぎった. しかも裂け目は少なく見積もっても20cmはあるのだ. 開けたとたんにショック死する可能性だって否定しきれない.

 ジッパーが開いて, 骨だの血管だの筋肉だの腱だのが剥き出しになり, 血まみれになった彼の背中を見て, 119番通報する母親の姿が目に浮かぶ. …… うちの子が,背中のファスナーを, ファスナーが開いてしまって, うちの子の …… 奥さん,いいから落ちついて下さい, もう一度,お子さんが,ファスナーで, 背中をどうしましたか? …… ですから,うちの子の, ファスナーが,背中で,でも,そんなことって …… 奥さん,どうしましたか,奥さん ……

 医者だって, ツマミのないジッパーなんて御免だろう. すっかり開ききってしまったジッパーを, 端から手作業で一粒づつ, それでも始めは医者の義務感に支えられ, はめ直す作業に熱中する. しかし, いづれ, かみ合わせが雑になっていき, ついに医者の根気が尽きたとき, 医者と看護婦はおもむろに目を合わせる. …… こんなチャック, 切り取って縫い合わせてしまおう …… きっとそんな合意が成立するに違いない.

 もっと深刻な事態も考えられる. いつだったか, 父親に連れられて行った国立博物館の薄暗い部屋の一角, 入れ墨を刺した人体の皮膚の標本. 動物の毛皮のように, 手足を広げた状態で博物館に陳列される様子は, それだけで十分, 悲劇的な光景のように思えたし, ことによると, 闇ルートで売買されて, 一人淋しく, 知らない国の麻薬王や狂信的な美術品収集家の, いやらしい視線にさらされて, 最悪の場合には, 税関の摘発を受けて, そのままあっけなく焼却処分になってしまう可能性だってある.

 自分の背負ってしまった不幸を思うと, 彼の目には涙が溢れた. その晩, 彼は泣き続け, 泣き疲れ, そして, いつの間にか深い眠りに落ちた.

* * *

 背中に異物感を感じて, その朝, 彼は目を覚ました. すぐさまジッパーのことを思い出し, 背中に手を回したが, パジャマを着ているせいか, 背中を触っている以上の特別な手応えは感じられなかった.

 昔, 農作業で大怪我をしたお祖父さんが, 言っていた. 天気が悪くなると古傷がうずく, たぶん今も, 低気圧か何かが背中のジッパーに作用して, だから背中がこんなに気持ち悪いのだろう. そんな風に思って窓の外に目をやって, 初めて, そこが自分の部屋でないことに気がついた.

 泣きすぎたせいか, あるいは眠りすぎたせいか, まだ頭がはっきりしない. 部屋を見回すと, やけにガランとしていて, まるで病室にいるようだった. 誰かが付き添っていたと思われるベッドの横の丸椅子や, ビニールのかかったフルーツの盛り合わせ, 部屋の隅には点滴道具一式が小綺麗にまとめられていた.

 彼は飛び起きた. ついに手術されてしまったのだ! ジッパーを確認しようとパジャマのボタンに指をかけたとたん, ドアーが音をたてて開き, 医者と看護婦と母親が, 慌ただしく部屋に入ってきた. 何かわめきながら手足をばたつかせる彼を取り押さえながら, …… あばれちゃいけないよ,ぼうや. 脳炎の疑いがあるんだ. 絶対安静が必要で, とにかく, あばれちゃいけないよ. そうだ,お注射を打ってあげよう …… お母さんが判る? あなた, もう一週間も眠っていたのよ, お母さん,心配で心配で …… お気の毒ですが, お母さん, この子は,もう,ダメかも知れません. この分だと,脳が相当,やられています. 正直いって,うん,もうダメでしょうね. 本当にお気の毒です …… そうですか, いつかきっと, こんな事になるんじゃないかと …… 先生,お注射の準備ができました. 鎮静剤と点滴薬を3対1でブレンドして ……

 そして, 医者が看護婦の注射器に気を取られた瞬間, 押さえつけられていた手足を振りほどき, 彼は一目散に駆けだした.

* * *

 ぼくは走っていた. 病院を抜け, 街が過ぎ去り, のどかな田園風景が流れ, 途中,幾度か激しい雨が降り, いつしか足元が砂浜に変わっても, それでもぼくは, 力いっぱい足をふんばり, 走り続けた.

 身体中がほてって, 水分と熱で皮膚がふやけ出していた. ぼくは濡れた上着を脱ぎ捨てた. 背中に激痛が走る. 手術の跡が化膿しているのかも知れない. そう思って背中に手を回すと, 知らぬ間にジッパーの部分が盛り上がっていることに気がついた.

 意外にも, ジッパーは残っていた. すると, ぼくは本当に一週間, ただ眠り続けて いただけなのかも知れない. 一週間といえば, たぶん今日はプールの日で, きっとS子は普段通りクラブに行くはずだ. 何も知らないS子. ぼくのいなくなったプールサイドで, ちらりとでも, S子は, ぼくの姿を探すだろうか.

 それにしても, もう何時間も走っているのに, ちっとも足が疲れないのが不思議だった. 一方,背中の方は, ジッパーだけでなく, 全体が益々盛り上がり, 今にも弾けそうな気配がしている. 死ぬ前に, せめてもう一度, S子に会っておきたかったな, そう思った時だった. バリバリ,という音がして, ぼくのジッパーが裂けた.

 一面に血の煙が立ち込めて視界が閉ざされたのと同時に, ひんやりとした水の感触がぼくを包み込んだ. いつの間にか, ぼくは水の中を泳いでいるのだった. 煙幕の外に出ると, 柔らかい光がぼくを迎え入れ, そして下には, ジッパーの開いた,ぼくの脱け殻が, ゆらゆらと海底に沈んでいくのが見えた. …… ぼくの魂よ,さようなら …… ぼくは今, なんだか, クジラになったような気分だった.

 何日も何日も, ぼくは独りで海の中を泳ぎ回った. そして,徐々にではあるが, 自分がクジラになっていくのを実感した. 少なくとも外見は,もう,完全にクジラだった.

 そろそろ自分がクジラとして生きていく自信がついた頃, その頃からぼくは, たまにS子の夢を見るようになった.

 透き通る青の, うら温かい海の中で, ぼくたちは仲良く寄り添って泳いでいる. 時折,ぼくの白いヒゲを引っ張って, S子が微笑む. ぼくもS子に微笑み返す.

 ぼくはS子に語りかける. …… S子,君もクジラになったらいいよ …… でも,クジラは, 人間のように声に出してしゃべることが出来ないのだった. ちょっと悲しい気分になったが, やっぱり, その方がクジラらしくて良いと思うと, ぼくの心は落ちついた.

 ぼくは,もう,人間には戻れない.


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